男子マラソン銅メダリスト円谷選手の苦悩
~銅メダルの価値~
左からヒートリー、アベベ、円谷(出典:blog.goo.ne.jp) |
毎日のように、日本人選手の
メダル獲得のニュースが飛び込んできます。
日本選手の活躍はめざましく、
よくぞここまで頑張ってきたと思うアスリートばかりです。
金メダルを取ると、国民が歓喜に沸きます。
金メダルは国の威信を示すものでもありますので。
特に、内村選手の演技はまさに神業であり、
体操日本を背負ってよくチームを引っ張った
と感動でいっぱいです。
しかし、よく感じるのですが・・・
「銅メダル」に対する価値観は
競技種目や個人によって全く異なりますね。
卓球やカヌーなど
今までメダルに届かなかった競技において
今回銅メダルを取ることができました。
飛び上がらんばかりの歓喜に満ちていました。
日本史上初ですから。
ところが、国技を誇る柔道になると、
「金が当たり前」などというプレッシャーがあり、
銅メダルをとっても喜ぶどころか
謝罪する選手が絶えません。
世界で3位という偉業なのですが、
銅メダルのもつ価値感は様々です。
銅メダリスト円谷選手の栄光と苦悩
1964年の東京オリンピック時、
私は5歳でしたのでほとんど記憶はないのですが、
初めてテレビが家に来て、
オリンピックもうっすらとした記憶はあります。
聖火台への点火
体操のチャスラフスカの美しい姿
マラソンのアベベ・・・
このあたりが何となく映像として思い出されます。
円谷幸吉はこの時男子マラソンに出場していました。
当時、陸上自衛隊の24歳。
レース順位はアベベに次いで
第2位で国立競技場に入ってきましたが、
「男は後ろを振り向いてはいけない」という父親の
戒めを忠実に守り、トラックでの駆け引きをせず、
結局ゴール手前でイギリスのヒートリー選手に
追い越されてしまい、銅メダルとなりました。
このことを円谷選手は悔やんでいたようです。
それでも、東京五輪で日本が陸上競技において
獲得した唯一のメダルとなり、
国立競技場で日の丸が掲揚されたのは、
日本選手では円谷のみでありました。
東京五輪で一躍有名になった円谷選手ですが、
その後、彼の人生は狂っていきます。
彼は、次期のメキシコシティ・オリンピックにおいて
「金メダル獲得」を宣言してしまったのです。
しかし、不運なことに、
円谷の理解者だった自衛隊体育学校の校長が変わり、
選手育成の特別待遇を廃止されてしまいました。
さらに、婚約者がいたのですが、上官から
「次のオリンピックが大事、結婚は認めず。」
と言われ、結果的に破談になってしまいます。
婚約者の女性は、それまでの思い出の品を
円谷の玄関先に置いて去りました。
さらに、幹部候補生になった彼には
トレーニングに費やす時間がほとんど無くなります。
周囲の期待に応えるため無理をしてしまい・・・
オーバーワークの末、持病だった腰痛が悪化。
椎間板ヘルニアを発症し手術します。
手術後、以前のようには走れなくなり
次第に挫折していきます。
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年
年明け間もない1月9日に、
円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にて
カミソリで頸動脈を切って自殺。
27歳でした。
その首には銅メダルがかけてあったそうです。
遺書には、家族への感謝とともに
「・・・父上様母上様
幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。・・・」
彼の自負心、自尊心が崩れ、
国民や家族に約束した「金メダル」が
不可能になったことへのお詫びの気持ちが
死へ追いやったのでしょうか・・・
また、元婚約者が他の男性と結婚したことを
知ったすぐ後でもあったので、
これも自殺の引き金になったのかもしれません。
東京五輪陸上で唯一のメダリストでありながら、
さらに高みを目指すため
国民に「金メダル」を宣言し
自分を追い詰めていった円谷選手。
その期待やプレッシャーが重圧になってしまいました。
本来スポーツは楽しむものですが、
オリンピックという舞台は
国家同士の戦いの場にもなっています。
オリンピック選手は、国を背負って戦わなければ
ならない重圧を感じています。
「銅メダル」って「金と同じ」と書きますが、
「銅メダル」って「金と同じ」と書きますが、
金メダルとは違う何か魔物というか不安定な存在ですね。
メダルのない4位に比べたら雲泥の差。
「メダリストになれた。」
という喜びをもたらしてくれます。
でも、
という喜びをもたらしてくれます。
でも、
「あなたは1番ではない。
まだ金・銀メダルがあるから頑張れ!」
まだ金・銀メダルがあるから頑張れ!」
という悪魔のささやきもあります。
円谷選手も国民の期待を受け
さらにその上を目指してしまいましたが、
もしそれが不可能になった場合は
諦める勇気が必要だったのでは・・・
次の人に譲り、指導者への道もあったと思います。
メキシコシティ・オリンピックでは、
東京五輪で8位だった君原選手が
男子マラソンで銀メダルに輝き、
マラソン界を盛り上げてくれました。
円谷選手の死のショックは大きかったと
伝えられています。
現在、円谷選手の功績を讃えて
円谷選手も国民の期待を受け
さらにその上を目指してしまいましたが、
もしそれが不可能になった場合は
諦める勇気が必要だったのでは・・・
次の人に譲り、指導者への道もあったと思います。
メキシコシティ・オリンピックでは、
東京五輪で8位だった君原選手が
男子マラソンで銀メダルに輝き、
マラソン界を盛り上げてくれました。
円谷選手の死のショックは大きかったと
伝えられています。
現在、円谷選手の功績を讃えて
出身地の福島県須賀川市では
毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が
開催されています。
また、須賀川市には「円谷幸吉メモリアルホール」も
公開されています。
彼の悲劇により、日本スポーツ界の反省点として、
アスリートに対するメンタルサポートや
メンタルヘルスケアの重要性が認識され、
実施されるようになっていきました。
今見ているリオ・オリンピックでは、
メダルが取れた選手への称賛とともに、
メダルが取れた選手への称賛とともに、
残念ながら取れなかった選手にも
あたたかい拍手を送ってあげたいと思います。
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5 件のコメント:
メダルを取って狂う人もいれば、メダルを取るために狂う人もいます。
今やオリンピックはアマチュアの祭典でもなく、スポンサー付きの道化師になりさがってしまいました・・・。もう、オリンピックは観る気も起こりません。
1964年の東京オリンピックのトラック競技で、確か1万メートルだったか?皆が走り終わっても2周くらい遅れて一人だけ黙々と走っている選手がいました。アフリカのどこかの国の選手だったような・・・。その選手が一人でゴールインする間近、競技場の割れんばかりの大拍手。今でも思い出すだびに鳥肌が立ちます。これがオリンピックです。「銅じゃだめです。金でなきゃ、悔しい・・・。」あの優しかった日本人はどこへ行ってしまったんでしょうね?
アラジンさん
「参加することに意義がある」と言われたオリンピックは遠い昔の話になりましたね。
私的には、限界に挑戦するアスリートの姿には感動します。
でも、結果がそのアスリートの将来や人生までも左右するイベントに
なっているので、メダルから外れた人は可哀想な気もします。
参加するだけでは満足しないのです。競争が好きなんだな、きっと☝ そんな人間の欲望の塊が戦争を繰返してきたのだと思います。スポーツで大騒ぎしてるのぐらい大目にみましょう。
自由人さん
人間は競争する生き物なのでしょうか・・・
戦争ではなくスポーツでその欲望を満たすものありでしょうね。
もちろん、スポーツマンシップにのっとってですが。
煩悩というか「欲」が生きるエネルギーになっているとも言えるかもしれない。他人との比較から自己愛がうまれ…あらゆる「欲」を満たすために競い合うのが人生かも。
長生き競争も考えものですね(笑) 時節柄そんな思いもあります。
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